雑文集

文章と漫画を描いています

ピンピンコロリの村

うちの近所には80過ぎの独居老人がゴロゴロいる。彼らを見ていると自分もこれくらいの歳までは一人でもやっていけるという自信が沸く。しかし、寝たきりになったらそうはいかない。いかにしてピンピンコロリできるかが重要だ。

私は、ピンピンコロリで逝く方法はひとつしかないと思っている。 それは過疎の村で人付き合いを避けて暮らすということである。

 大体年寄りってのは、転んで骨折して入院して寝たきりになって全身に管をつけられて延命させられてようやく死ぬ。転んだ時に周りの誰かが病院に連れてったからそうなる。過疎の村で一人ぼっちで転んでそこから動けなければそのまま死ぬはずだ。

 また骨折以外で寝たきりになるパターンといえば誤嚥からの肺炎→入院である。この誤嚥も一人ぼっちで暮らしていれば、肺炎になってもそれをこじらせてそのまま死ぬ。

このぼっち死は 死ぬまでに数日、下手したら数週間かかるおそれがある。そんなものピンピンコロリでも何でもないと思われる向きもあるかもしれない。しかし入院したら死ぬまでに数年、下手したら十数年もかかるのだから、数日で死ねるぼっち死はピンピンコロリと言って差し支えないのではあるまいか。

 とはいえ、 いかに誰とも関わらずに暮らそうと思っても、倒れた状態を誰にも見つからずにキープするのはかなり難易度が高そうな気がする。特にスーパーなどの人目のある所で倒れたりしたら、いかに世知辛い日本と言えども、きっと誰かに助けられてしまう。危険だ。

この危険から逃れるためには、志を同じくする者同士で村を作るしかない。元気な時には助け合うが、一旦誰かが倒れたら、そこは見て見ぬフリをする。助けを求められれば別だが、そうでなければ本人が息絶えるまで放置。

そんなルールが徹底された村でならピンピンコロリが100%実現できるような気がするのだがどうか。 無理か。


多分私はXジェンダーだと思う、と思ってた

 

以下の記事は 2018/11/27 21:39 に投稿した「多分私はXジェンダーだと思う」という記事を再掲載したものである。この二年間の間に新しく得た知見もあり、私の考え方も修正された部分があるので、文末に加筆しておく。

多分私は X ジェンダーだと思う

よく「女は灰になるまで」とか言うけど、あれは嘘だ。 人による。
「子供を産みたいと思うのは女の本能」とも言うけど、それも嘘だ。人による。

「女は○○だ」みたいなレッテル貼り、 あれを聞くたんびに「それに当てはまらない自分は女じゃないのか?」と納得いかない気分になる。

いや「なる」は正確じゃないな。 「なってた」が正しいな。 というのも最近になって 「X ジェンダー」という言葉を知ったから。

人間には生物学的な性と社会的な役割としての性がある。 前者をセックス、後者をジェンダーと言う。 そして生物学的な身体の性と社会的に求められる役割 の性が一致していない人のことをトランスジェンダーと言う。

世間では、女の体に男の心、男の体に女の心を持った人のことをトランスジェンダーと言っているようだが、私はそれは正確ではないと思っている。女の心、男の心などというものは、もともと存在しないものだから。

男上位の社会の中では、男が女に押し付けた役割をうまく演じることが女の生存戦略となる。 女らしさ= 優しさ、素直さ、従順さ、可愛らしさ、控え目さ、男の目から見て好ましい美しさ等々は、女が男から気に入られるために学習して身につけるものであり、個々人が生まれながらに備えている性質ではない。

今の社会では、生物学的な性と逆の性自認を持った人は 体を手術したり戸籍を変えることによって精神的な苦しみから逃れようとしているが、もしも本当に男女平等な社会が実現したら、そうする必要はなくなるのではないだろうか。

男がスカートを履いたり化粧をしても、それが当然であると受け入れられ、女がノーブラのタンクトップにショートパンツという姿で夜中にほっつき歩いても性犯罪に遭わないような、そんな社会が実現したら、性同一性障害なんて障害でもなんでもなくなると思う。

そんな世の中が来るのか来ないのかは置いといて、 X ジェンダーとは何かと言うと、自分のことを女でも男でもないと感じている人のことだ。

私はずっと「みんなの言う『女』に自分は当てはまらないな」と感じることが多かった。かといって自分を男だと感じたことも、男になりたいと思ったこともなく、女の中の異分子として生きてきた。

好きになるのは異性だけれども、その好きな異性からであっても、女扱いされるとイラッとすることが多かった。 「ちゃんと化粧すればいいのに」なんてことを言われても「カレに愛されるために頑張ってメイクしなくちゃ❤」などとは微塵も思わず「うるせーよ」と心の中で毒づく、そんな女っ気ゼロの女だった。

子供の頃とか若い頃とか自分に力がない頃は「相手の求める役割に自分も応えなきゃ」という殊勝な心がけが多少なりとはあるのだが、年を取るにつれ、自分一人で出来ることが増えてゆき、自信がつけばつくほど「他人が自分に求める役割なんか知るか」という心境に達してしまう。

そういう心境に近づくにしたがって恋愛感情も消えていく。どういうメカニズムなのかわからんけど。

今では素敵な人を見て素敵だなと思うことはあっても、若い頃に感じたキュンキュンする感じとか全然湧いてこない。

そう考えると「女」ってすごいね。「灰になるまで」だもんね。
私には女の気持ちは一生わからんと思う。男の気持ちもだけど。

 

トランスジェンダーと性別違和は別物である

生物学的な性と逆の性自認を持った人は 体を手術したり戸籍を変えることによって精神的な苦しみから逃れようとしている

私は元記事で上記のように理解していたのだけれども、どうもそれが正確ではなかったらしい。上記の書き方では単に「体の性別とジェンダーが一致しない人」が手術を望む、といった意味になるけれども、性別違和という症状はジェンダーに関係なく、自分の身体に違和感を覚えるものらしい。そのことによって精神的な苦痛を感じ、その苦痛から逃れるために手術が必要となり、手術が完了した身体の状態のままで社会生活を送ると支障が生じるので戸籍も変更される、ということのようだ。

つまり、女あるいは男としての人生を生きたい→そのために戸籍を変えたい→そのために手術をしよう、ではなく、まず自分の身体に強烈な違和感があって、とにかく身体をどうにかしないことには精神的に追い込まれてしまう、というのが性同一性障害者の抱える悩みのようだ。

なので、私が書いた「ジェンダーのない社会が実現したら性同一性障害なんてものは障害でもなんでもなくなる」という認識は誤りだったと言える。

ただ、現実に即して言えば、性転換手術をし終えた後で、自分の身体違和が実はジェンダー違和によるものだったことに気付いて、手術したことを後悔している人たちも少なくないらしい。性同一性障害と診断された人の中には、ジェンダーのない社会であれば、特に問題なく生きていけていたはずの人が結構な割合で含まれているのではないかと思う。

トランスジェンダー、すなわち、ジェンダー(社会的に設定された性)をトランス(変換)させたいだけの人は、自分の身体には何の違和感も持たない。手術の必要性も感じない。そういう人たちはこの世からジェンダーがなくなればトランスする必要もなくなるだろう。

結構なことじゃんか、と私なんかは思うのだが、何故かトランスジェンダー、特にMTF( Male to Female)と呼ばれる人たちはジェンダー解体を強烈に拒否する。ネット上では「くたばれGID(gender identity disorder=性同一性障碍者)」と叫ぶMTFを何人も見ることができる。

彼らは何故そんなにもジェンダー制を維持したままにしておきたいのだろう。

女の体にはなりたくない。しかし女子トイレにも女湯にも入りたい。「男の体のままで女性専用スペースに入るな」と言われれば「それは差別だ!」と主張する。そんな「トランスジェンダー」の人たちが今日も元気にネット上で「トランス女性は女性です」と言い張っている。自分の股間にぶら下がっているものは「これは巨大なクリトリスだから男根ではなく女根と呼ぶべきだ」などと言う。

男の体のままで女性専用スペースに入るために彼らは「体は男性でもジェンダーは女性である」というレトリックを使う。しかしジェンダーそのものが消失してしまったら、それが使えなくなってしまう。彼らがジェンダー解体をかたくなに拒む理由はそこにあるのではないか。

二年前の私は自分のことを、FジェンダーでもMジェンダーでもないからXジェンダーなんだろうな程度に思っていた。しかし今はXジェンダーを自称することそのものがジェンダー温存につながる行為だなと思うようになった。なので今後の私はただの女体持ちとして生きていこうと思う。


血の轍 最終巻を読んだ

私はずっと静一のことが可哀想だった。こんな親のもとに生まれてこなければ人並みの幸せな人生がおくれてたはずなのに、と。この親のせいで人生をめちゃくちゃにされたのだ、と。しかし最終巻を読んだら、静一にとっての幸せとは、別に人並みの人生をおくることではなかったのかもと思った。

静子を見送った後に描かれるのは、何が幸せかということすら考えていなさそうな、そんな事はどうでもいいという以前に、意識してもいないような静一の日常。ただ生きているだけ。そこに何の意味もなく、その意味のなさが逆に救いになっているような。そんな静一の人生。

ラストの静一は即身仏のようにも見える。あの丘の上から見える光景は涅槃のようだった。


【ネタバレあり】「君たちはどう生きるか」を見て思ったこと

下の世界で真人は若き日の母と出会う。母はスカートにエプロン姿でパンを焼き、バターを塗り、真人に食わせる。着物に割烹着姿ではない。ご飯と味噌汁でもない。住んでいるのも洋風の家だ。

大叔父の若き日の写真を見ると、とても日本人には見えない。西洋人のようである。大叔父は言う。「私の血を引いたものでなければ、石を積む仕事は引き継げない」

東洋が木の文化と言われているのに比して、西洋は石の文化と言われる。西洋思想をベースに持つ者にしか石は積めないということなのだろう。

しかし、その西洋文化は、今や悪意にまみれ、崩壊の危機にある、と大叔父は言う。

いいのだ。崩壊したって。どうせ先は見えている。崩壊してしまえばいいのだ。石の文化なんて。と宮崎駿が思っているかどうかは知らないが、私は思っている。

では、これからは東洋思想の時代なのかと言うと、ここからが私の論理の飛躍になるのだが、これは西洋だの東洋だの右だの左だのと言う以前に、男文明の行き詰まりだと私は思っているのである。男の体で生まれた人間を基準にした制度設計がそもそも間違っているのだ。

生物の基本は、産み、育て、種を存続させることにあり、産む体を持った人間を標準として制度設計されない文明は必ず崩壊する。今の世界がこういう状態になっているのは必然なのだ。

この映画には食事のシーンが3度出てくる。最初は老いた女中たちから。次に成人女性のキリコから。最後に少女である母から、真人は食事を提供される。食事を提供しているのは、全員女。男が女に食わせてもらって命をつないでいる。少なくとも、この映画の中ではそう描かれている。

君たちはどう生きるか

とりあえず女の言うこと聞いて生きとけ。女を支配しようと思わずに生きていけ。男の言うとおりに生きていくより、女の言うとおりに生きていった方が今よりだいぶマシな世の中になるはずだ。


povoちゃんに知っておいてほしいこと

昨日から #今日のpovoちゃん というタグで、povoちゃんの回線速度をツイートしている。この機会に 1ユーザーとしての私の考えをpovoちゃんに聞いてもらいたい。

KDDIにお勤めの方々はそれなりの給料をもらっていると思う。だから、お金に困っている人たちの動向が今イチよくわかっていないと思う。私は押しも押されぬワーキングプアなので、彼らに真の貧乏人のサンプルを提供できると自負している。

貧乏人というものは、お金を使いたくても、そもそも使えるお金が入ってこない。いかにして使わずに済むかだけを考える。

私の場合、自宅と職場ではWi-Fiが使えるのでpovoは必要ない。必要となってくるのは出先で地図や天気を確認したり電子マネー決済する時くらいだ。その際、povoの回線を使えないこともないのだが、いかんせん重い。重過ぎる。決済のためのアプリを起動するだけで何十秒もかかってしまう。なので、結局ロケットモバイルのタブレットを持ち歩いている。

 

reiwa04.hatenablog.com

 

povoは基本料0円の携帯電話としてしか使っていない。
こういうユーザーはKDDIにとって有難くないはずである。何とかして金を落とさせたいはずである。ではどうすれば私のようなユーザーに金を落とさせることができるのか。

それはズバリ、価格据え置きでデータトッピングの使用期限を無期限に変更することである。

ギガ活でもらえるデータトッピングも同様だ。使用期限がある(しかも短すぎる)から金を出す気にならない。期限がなければ、ちょっと余裕があるときに少額のデータを買っておこうかなという気持ちにもなる。

逆に高額のデータが買えるのは金に困ってない層だと思うので、そっちは今まで通りの期限つきでいいと思う。たとえ300ギガで無期限になろうが1万円以上の価格だったら貧乏人には手が出せない。そこそこ以上の収入がある層なら喜んで飛びつくだろうが、飛びつきたくても飛びつく金がないのが貧乏人なのだ。その層は一度に3000円以上の金は出さない(出せない)と認識していただきたい。

とりあえず1ギガ7日間390円のトッピングだけでも使用期限を無期限(最低でも半年)にしてもらいたい。そうなれば私は買う。というか、そうしなければ永久に買うことはない。私の収入が増えない限り。


【ネタバレあり】「プロミシング・ヤング・ウーマン」は復讐の物語ではない

 

この映画は21世紀版「テルマ&ルイーズ」だ。
 30年前に作られた「テルマ&ルイーズ」のヒロインは 男の加害から逃げることしかできなかった。 しかし「プロミシング・ヤング・ウーマン」のヒロインは 立ち向かうことを選ぶ。

 立ち向かうと言っても、彼女がやろうとしたことは復讐ではない。表面的には復讐のように見えるし、映画のポスターにも「復讐エンターテインメント」と書いてある。だから、半沢直樹的なカタルシスを期待して見に行った人の中には「全然スッキリしなかった」という感想を持つ人も少なからずいるようだ。

しかし彼女がやろうとしていたことは復讐でも私刑でもない。啓蒙である。私がそのことに気づいたのはラストで警察が到着してからだった。

物語の中盤で彼女は事件に関する証拠品を手に入れる。それを公開すれば犯人を社会的に抹殺することは可能だった。なのに彼女はそれをしない。自分は表に出ずに裏から加害者にだけダメージを与える、といった手法を彼女は取らない。

何故だろう?
何故わざわざ自分の身を危険にさらしてまで犯人と直接対決しようとするのだろう?

そういえば彼女が直接対決したのは犯人だけではなかった。事件の関係者全員と直接会って、事件について問いただしていた。単にやり返すのが目的なら、会って話す必要はなかったはずだ。

きっと彼女はわからせたかったのだ。
加害を加害と認識していない人々に「何が加害なのか」ということを。自分のことを善人だと信じ込んでいる人々が一体何に荷担していたのかということを。
言葉で言っても理解しようとしない人々に、被害者と同じ経験をさせ、身をもって理解させようとしただけなのだ。
だから、自らの罪を自覚し、後悔の念に苛まれている人物に対しては断罪しない。断罪が目的ではないのだ。

わかってくれればそれでいい。
でも、わからない奴、わかろうともしない奴には、痛い思いをさせてでもわからせてやる、という執念。
それはこの映画の脚本を自ら書きあげたエメラルド・フェネル監督の執念でもある。

テルマとルイーズは心中(と言っても構わないだろう)という形でしか抑圧から自由になれなかった。「プロミシング・ヤング・ウーマン」のキャシーも、一矢報いたとはいえ、ニーナと心中したようなものだ。
世の中は30年たっても、まだ、この状態だ。私ですら歯痒いと感じているのだから監督はなおさらだろう。

ラストの「これで終わりじゃない」という主人公からのメッセージは、間違いなく監督自身からのメッセージだ。この映画に仕込まれたTOXIC。それはこれから先、ジワジワと効いてくるだろう。
この映画を観てしまった心ある映画製作者が、これを見なかったことにして、今までと同じような映画を作り続けることは難しいと思う。ライムスター宇多丸氏が言っていたように「過去の映画の評価を塗り変えてしまう」ことにすらなるかもしれない。映画そのものの面白さ以上に、映画人に与える心理的な影響が強い作品だと思う。


フィクションが現実に与える影響

 

いつもは全く何の波紋も起こさない私のつぶやきであるが、一か月前のこのツイートは今でもたまに「いいね」されたりしている。このことに関して頭に来ている女がそれだけ沢山いるということなのだろう。



この手のアレンジされたフィクションは数多い。それを見て、それが現実だと信じ込んでしまう男も少なくない。私の記事のコメント欄にもそういう人がいた。男が主体的に罪を犯しているように見えて実は女が裏から操っているというストーリーの映画を例に挙げ、「これこそが世界の真理かもしれません」なんて言っちゃってるのである。

映画はフィクションである。しかも、その映画は男の手によって作られている。そのフィクションを見てコメ主は「世界の真理」だと思い込んでしまっている。男の手によって現実がフィルタリングされたりアレンジされたりしている可能性には全く思い及んでいないのだ。

こういった創作は神話の時代から続いている。あまりにも歴史が古すぎて神話や民話が男の価値観によって淘汰されてきたフィクションだということすら意識されていない。彼らにとって男こそが人類なのである。

昨年、国立歴史民俗博物館で「性差の日本史」と冠された展示会が開かれた。その中に「遊女小雛の日記にみる一ヶ月間の食生活」という展示があり、これがバズった。

 

この遊女の食事が平均的なものなのか、この見世が特にブラックだったのかはわからない。ただ、吉原では、夕食は客の相伴にあずかるのが慣例だったようだ。

落語や講談では客にたかる遊女のエピソードが度々出てくる。彼女らは財布をあてにして客を食い物にする強欲な女として描かれるが、彼女らのバックグラウンドを知ると、たかってでも食べておかなければ飢える状況が見えてくる。こんな生活で長生きできるはずもなく、遊女の平均寿命は二十歳そこそこであった。吉原近くの投げ込み寺と呼ばれる寺には毎日のように遊女の遺体が運び込まれていたという。

彼女らが売られてきた初日の儀式がまた凄い。土間に直置きした皿から箸を使わずに犬食いさせられるというのだ。人間界から畜生界に堕ちたのだと思い知らせるためなのだという。こうやって人としての尊厳を捨てさせられるわけである。

このようなエピソードが落語で語られることは当然、ない。そんな要素を入れたら笑えなくなってしまう。
吉原で遊ぶ客だって楽しく遊びたいだろう。遊女が辛い境遇に置かれているとしても、客である自分と一緒にいる時だけは喜びを感じているはずだ、と思いたいだろう。また、自分にたかろうとする遊女は満足に食べさせてもらえない可哀想な女などではなく、男を騙して美味しい思いをしている悪い女だと思った方が罪悪感を感じずに遊べるだろう。

「客をカモにする遊女」の後ろには、その遊女を道具として使い捨てる楼主がいる。しかし彼らの存在は透明化されている。そのために「遊女は搾取されているように見えるが本当に搾取されているのは客である男のほうだ」というフィクションが罷り通ってしまう。

女を悪者にするか、男を救済者にするかしなければ、娯楽として成立しないのが落語の中の吉原である。落語に限らず、小説でも映画でも、買われる女を題材にしたフィクションには全てと言っていいほどこのフォーマットが適用されている。そのために男が目を背けたい現実は隠され、「本当の強者は女だ」というフィクションが再生産され続ける。

巷で言われる「男性差別」なるものも、結局は男が男自身で作り出した構造によって生まれているものなのだが、フィクションによって現実が見えなくなっている男はそこに気づこうともしない。自分を抑圧している強い男や社会制度と戦うよりは、女を叩いている方が楽だという判断もあるのだろう。その手の男にとって「本当に強いのは(or 怖いのは、悪いのは、上なのは、得なのは、幸福なのは)女」というフィクションが実に使い勝手のいい煙幕となっている。

もうそろそろ、このフィクションから脱却すべき時期だろう。私たちの生きている現実は、あまりにもこれらのフィクションによって口を塞がれ過ぎている。