雑文集

文章と漫画を描いています

フィクションが現実に与える影響

 

いつもは全く何の波紋も起こさない私のつぶやきであるが、一か月前のこのツイートは今でもたまに「いいね」されたりしている。このことに関して頭に来ている女がそれだけ沢山いるということなのだろう。



この手のアレンジされたフィクションは数多い。それを見て、それが現実だと信じ込んでしまう男も少なくない。私の記事のコメント欄にもそういう人がいた。男が主体的に罪を犯しているように見えて実は女が裏から操っているというストーリーの映画を例に挙げ、「これこそが世界の真理かもしれません」なんて言っちゃってるのである。

映画はフィクションである。しかも、その映画は男の手によって作られている。そのフィクションを見てコメ主は「世界の真理」だと思い込んでしまっている。男の手によって現実がフィルタリングされたりアレンジされたりしている可能性には全く思い及んでいないのだ。

こういった創作は神話の時代から続いている。あまりにも歴史が古すぎて神話や民話が男の価値観によって淘汰されてきたフィクションだということすら意識されていない。彼らにとって男こそが人類なのである。

昨年、国立歴史民俗博物館で「性差の日本史」と冠された展示会が開かれた。その中に「遊女小雛の日記にみる一ヶ月間の食生活」という展示があり、これがバズった。

 

この遊女の食事が平均的なものなのか、この見世が特にブラックだったのかはわからない。ただ、吉原では、夕食は客の相伴にあずかるのが慣例だったようだ。

落語や講談では客にたかる遊女のエピソードが度々出てくる。彼女らは財布をあてにして客を食い物にする強欲な女として描かれるが、彼女らのバックグラウンドを知ると、たかってでも食べておかなければ飢える状況が見えてくる。こんな生活で長生きできるはずもなく、遊女の平均寿命は二十歳そこそこであった。吉原近くの投げ込み寺と呼ばれる寺には毎日のように遊女の遺体が運び込まれていたという。

彼女らが売られてきた初日の儀式がまた凄い。土間に直置きした皿から箸を使わずに犬食いさせられるというのだ。人間界から畜生界に堕ちたのだと思い知らせるためなのだという。こうやって人としての尊厳を捨てさせられるわけである。

このようなエピソードが落語で語られることは当然、ない。そんな要素を入れたら笑えなくなってしまう。
吉原で遊ぶ客だって楽しく遊びたいだろう。遊女が辛い境遇に置かれているとしても、客である自分と一緒にいる時だけは喜びを感じているはずだ、と思いたいだろう。また、自分にたかろうとする遊女は満足に食べさせてもらえない可哀想な女などではなく、男を騙して美味しい思いをしている悪い女だと思った方が罪悪感を感じずに遊べるだろう。

「客をカモにする遊女」の後ろには、その遊女を道具として使い捨てる楼主がいる。しかし彼らの存在は透明化されている。そのために「遊女は搾取されているように見えるが本当に搾取されているのは客である男のほうだ」というフィクションが罷り通ってしまう。

女を悪者にするか、男を救済者にするかしなければ、娯楽として成立しないのが落語の中の吉原である。落語に限らず、小説でも映画でも、買われる女を題材にしたフィクションには全てと言っていいほどこのフォーマットが適用されている。そのために男が目を背けたい現実は隠され、「本当の強者は女だ」というフィクションが再生産され続ける。

巷で言われる「男性差別」なるものも、結局は男が男自身で作り出した構造によって生まれているものなのだが、フィクションによって現実が見えなくなっている男はそこに気づこうともしない。自分を抑圧している強い男や社会制度と戦うよりは、女を叩いている方が楽だという判断もあるのだろう。その手の男にとって「本当に強いのは(or 怖いのは、悪いのは、上なのは、得なのは、幸福なのは)女」というフィクションが実に使い勝手のいい煙幕となっている。

もうそろそろ、このフィクションから脱却すべき時期だろう。私たちの生きている現実は、あまりにもこれらのフィクションによって口を塞がれ過ぎている。