雑文集

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【ネタバレあり】「プロミシング・ヤング・ウーマン」は復讐の物語ではない

 

この映画は21世紀版「テルマ&ルイーズ」だ。
 30年前に作られた「テルマ&ルイーズ」のヒロインは 男の加害から逃げることしかできなかった。 しかし「プロミシング・ヤング・ウーマン」のヒロインは 立ち向かうことを選ぶ。

 立ち向かうと言っても、彼女がやろうとしたことは復讐ではない。表面的には復讐のように見えるし、映画のポスターにも「復讐エンターテインメント」と書いてある。だから、半沢直樹的なカタルシスを期待して見に行った人の中には「全然スッキリしなかった」という感想を持つ人も少なからずいるようだ。

しかし彼女がやろうとしていたことは復讐でも私刑でもない。啓蒙である。私がそのことに気づいたのはラストで警察が到着してからだった。

物語の中盤で彼女は事件に関する証拠品を手に入れる。それを公開すれば犯人を社会的に抹殺することは可能だった。なのに彼女はそれをしない。自分は表に出ずに裏から加害者にだけダメージを与える、といった手法を彼女は取らない。

何故だろう?
何故わざわざ自分の身を危険にさらしてまで犯人と直接対決しようとするのだろう?

そういえば彼女が直接対決したのは犯人だけではなかった。事件の関係者全員と直接会って、事件について問いただしていた。単にやり返すのが目的なら、会って話す必要はなかったはずだ。

きっと彼女はわからせたかったのだ。
加害を加害と認識していない人々に「何が加害なのか」ということを。自分のことを善人だと信じ込んでいる人々が一体何に荷担していたのかということを。
言葉で言っても理解しようとしない人々に、被害者と同じ経験をさせ、身をもって理解させようとしただけなのだ。
だから、自らの罪を自覚し、後悔の念に苛まれている人物に対しては断罪しない。断罪が目的ではないのだ。

わかってくれればそれでいい。
でも、わからない奴、わかろうともしない奴には、痛い思いをさせてでもわからせてやる、という執念。
それはこの映画の脚本を自ら書きあげたエメラルド・フェネル監督の執念でもある。

テルマとルイーズは心中(と言っても構わないだろう)という形でしか抑圧から自由になれなかった。「プロミシング・ヤング・ウーマン」のキャシーも、一矢報いたとはいえ、ニーナと心中したようなものだ。
世の中は30年たっても、まだ、この状態だ。私ですら歯痒いと感じているのだから監督はなおさらだろう。

ラストの「これで終わりじゃない」という主人公からのメッセージは、間違いなく監督自身からのメッセージだ。この映画に仕込まれたTOXIC。それはこれから先、ジワジワと効いてくるだろう。
この映画を観てしまった心ある映画製作者が、これを見なかったことにして、今までと同じような映画を作り続けることは難しいと思う。ライムスター宇多丸氏が言っていたように「過去の映画の評価を塗り変えてしまう」ことにすらなるかもしれない。映画そのものの面白さ以上に、映画人に与える心理的な影響が強い作品だと思う。