雑文集

文章と漫画を描いています

強者と弱者

前回の記事で私は「差別とは強者が弱者に対して行うものである」と書いた。

reiwa04.hatenablog.com

私の定義で言えば、強者とは 「ルールを定める力とそのルールに他者を従わせる力を持つ者」である。 その力を持たないのであれば、どれだけ腕力が強かろうが、社会的地位が高かろうが、多数派に属していようが、強者たりえない。

 資本主義社会では経済力のある人間が強者だが、カネの力の及ばない未開の村に放り込まれたら たちまち弱者の位置に転落してしまう。 どれだけ銀行口座に大金が唸っていようと 村のルールに従わざるを得ない。
 しかし、その村から外に出て元の資本主義社会に戻れば、カネの力で未開の村を自分の設定したルールの支配下に置くことも可能となる。

 つまり強者とは絶対的なものではない。 ある条件下では強者であり、別の条件下では弱者になり得る。
そのせいで、誰が強者で誰が弱者なのかがわかりにくいケースが往々にしてある。
しかし「ルールを定める力とそのルールに他者を従わせる力を持つ者」こそが強者であると考えれば、色々なことが理解しやすくなるのではないだろうか。

 例えば女性専用車両の存在を指して「男性差別だ」と言う人がいる。しかし 女性専用車両に男が乗り込んできても、その男を女が力で排除することはできない。 また力で排除したという例も聞いたことがない。力で排除しようとすれば自分の方が痛い目に合うとわかっているので女は戦う事よりも我慢する事を選ぶ。 体格でも腕力でも男に劣る女は「女性専用車両に乗れるのは女性のみ」というルールに従おうとしない男を従わせるだけの力を持っていない。弱者であるという事はそういうことだ。

民主主義によって、弱者は強者から蹂躙されないですむように自分を守るルールを作れるようになった。福祉法や労働法は弱者のためのルールである。けれども、被雇用者が雇用主を労働基準法に従わせる力はない。従おうとしない雇用主を従わせるためには、組合なり労働基準局なり弁護士なりの力を借りなければならない。弱者であるという事はそういうことだ。

差別というものは強者が弱者に対して行う不公正である。弱者が強者を差別することはできない。もし弱者が強者を差別しているように見えたとしたら、強者からの抑圧に対抗する防衛行動である可能性を考えたほうがいいと思う。