雑文集

文章と漫画を描いています

差別的な お笑い

 

ちょっと前にラジオのパーソナリティーTwitter でガバガバの差別論を披露していた。 私はその人のラジオを聴いたことはなかったけれども、こんな考え方の人が MC をやっていたらヤバいと思い、つい引リツしてしまった。その後で、その人が同じ名前の一般人だと気づく。

いそろくさんの早とちり!!!

まあ、でも、いい機会なので、差別的な笑いについて 私の考えを書いておこうと思う。

元ツイ主の主張をザックリまとめると「ハブられるよりは差別されてでも社会の一員として扱われる方がマシだろ」ということにつきる。
確かに「仲間外れのぼっちになるよりはイジメられてでもグループのメンバーでいたい」と考えるイジメられっ子はいる。しかし ツイ主の言う「社会」とはホモソーシャルな社会にすぎない。

ホモソーシャル (英: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語


厳密に言えば女だけの集団もホモソーシャルな集団だと言えるのだけれども、一般的にホモソーシャルと言えば「男社会」の意味で使われる。

社会とは一元的なものではない。様々なレイヤーが幾重にも重なって形成されている。ホモソは数あるレイヤーの一つに過ぎない。しかしこのレイヤーは最も強固な力を持っている。社会構造の頂点にあって、このレイヤーの論理に基づいて、あらゆる制度が設計されている。なので、その論理がまるで人類全体に適用されて当然であるかのように錯覚している人は少なくない。ツイ主もその一人だ。

人類全体に適用されるのはヒューマニズムの論理であってホモソの論理ではない。老若男女を問わず、人種や身体的な特徴、生まれた場所、その個人が持つ能力や個性の差、そのようなものに左右されることのない、ホモサピエンス全てが尊重されるための共通ルール、それがヒューマニズムだ。ホモソの論理はホモソ内でのみ通用するローカルルールにすぎない。ローカルルールにすぎないものに汎用性はない。

生まれた時からその世界にいると、そこが世界の全てだと思い込んでしまうのだろうが、外には別の世界がある。そのことに気づいた人間は、自分にとって居心地のいい世界に移動する。(ちなみに私はトランスジェンダーを名乗る人達も結局それなんじゃないかと思っている)

移動する人が増えれば増えるほど、増えた方の世界の人の声が通るようになる。別の世界の人間もその声を無視できなくなる。

この現象はあらゆるステージで同時多発的に起きている。人類の文明がそういうフェーズに移行しているのだ。

お笑いの世界も例外ではない。

「笑い」には「見下して馬鹿にする」という要素が含まれる。馬鹿にするにしても、おかしなこと(間違ったことや突飛なことをやらかす行為)自体を対象にする場合もあれば、個人の身体的特徴を対象にする場合もある。

「その身体で生まれてきた」というだけの、自分には何の責任もないことで笑われることを、受け入れられる人間と受け入れられない人間がいる。受け入れられない人間は「シャレが通じない」「空気が読めない」「プライドが高い」などと言われて、更なる侮蔑の対象となる。

道化としてでしか自分の居場所を見つけられない人はいる。しかし、道化にならなくても居心地良く生きていける世界はある。その世界を見つけた人たちは、もう、元の世界に戻ろうとは思わないだろう。

テレビという場所は、その両方の世界の人たちによって共有されている。その場所で「容姿が劣ると判断された人間は道化扱いされることを受け入れろ」というメッセージが発せられ続けていたら、移行した人間は当然不快に思う。「せっかく新しい世界で気分良く生きているのに」と。「ローカルルールにすぎないものを普遍性のあるルールだと勘違いすんな」と。

この流れの中で芸人が生き残るためには、汎用性のある笑いでマスを制するか、ローカルエリアでのみ通用する笑いで固定客を掴むかのどちらかしかないだろう。エンタメが商売である以上、自分の芸がどういうレイヤーの客に求められているのか、そんなニーズも掴めないようでは話にならない。

冒頭のツイ主に話を戻すと、その人は別のテキストで「差別は絶対になくならないのだから、無くそうとするだけ無駄だ」といったことも書いていた。

犯罪や事故や病気なども絶対に無くならないのだが、「だから無くそうとするだけ無駄だ」と言う人は見かけない。ところがこれが「差別」になるとワラワラ湧いて出る。事故や病気に見舞われるリスクは誰にでもあるけれども、差別されるかどうかは生まれた時点で大体決まってしまうので、差別されるリスクのない人間にとっては他人事にすぎず、よって「無駄だ」と言えるのだろう。

差別も偏見も、人間が集団で暮らしていく中で自然に溜まっていく澱のようなものだと思う。意識してドブさらいし続けなければ、水は濁って淀み、生物は死んでゆく。差別に対して声をあげ続けることは、より多くの人が、より快適に暮らしていくために必要なメンテナンスなのだと私は思っている。